「日本人の法意識」 川島武宜
1967年に書かれた本ですが、今でも、法学を学ぶ者にとっては必読の本だそうです。。
団塊ジュニアよりちょっと下の世代にあたる私にとって、権利意識・近代的法意識というのは、ごく当たり前のものだと思っていました。しかし、本書において戦前からの法意識というものを、改めて示されることで、西洋的近代的な法の見方とは異なる日本人独特の法に対する捕え方について、改めて考えさせられました。
「訴えてやる~」というフレーズが一時流行りましたが(ダチョウ倶楽部でしたっけ??)、日本の場合、後のつきあいを考えて、裁判にはしないということは結構あるように思います。自分の権利を主張するということが、日本では、当然のことというようには認識されておらず、むしろ角が立つというように受け止められているということですね。
戦後に民法は書き換えられ、それは西洋的近代的な思想の影響を受けているわけですが、法律そのものの思想と、一般の市民の認識との間にギャップがあるというのは非常に興味深いことだと思います。学生時代に、「生ける法」という法哲学の概念について先生から習ったことがあるのですが、それも、法律の制定者や起草者が意図したところと、それが市井でどう受け止められ、どう使われるか、というところは、同一ではない(法律は生きていて同じ言葉でも中身が変わっていく)というような話で(完全にうろ覚えで正確ではありませんが・・)、なかなかこういったところを考えるのは非常に面白いなと思いました。
ちなみに、本書を読んでいて特に面白かったのは、所有権に対する法意識のところです。おそらく私世代の人で、民法をかじったことのある人であれば、自分の手元になくても、自分の所有権がある物に対しては、あくまで自分の物で、他人のものではない、というのは当然のように思えると思うのですが、戦中以前にはそうではなかったそうです。
本書であげられた事例なのですが、都会に住む人が、戦争中、荷物を疎開のために田舎の親戚に預けておいたところ、戦争が終わったので、それを返してもらいに行ったら、その親戚に、何で返さないといけないのか?というような顔をされたそうです。つまり、当時の感覚では、自分の手元にある物が自分の物で、手元を離れたら、もうその人の物ではない、ということがあったそうなのです。
現在の所有権概念というのは、それが当然のもののように思っていたのですが、あくまで一つの考え方にすぎないということに気づきました。そのように考えていくと、これまで自分が当たり前だと思っていた法律の規定についても、いろいろ考えてみる余地が(かなり)ありそうですね。
(追記)
この後、年配の方(戦争中を知る方)に上記の疎開時の荷物の話を聞いてみたのですが、「人の物は人の物。戦争中だからって、人の物を預かって、自分の物にするだなんてなかった。それは単なるやりとりの行き違いでは?」と言われました・・。これだけの大著が間違っているとは思えないので、私の読み間違いか、人や地域によって考え方がまちまちだったか・・・・。再度、読み直してみたいと思います・・・(あてにならずすみません・・・)
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